ロッキードT-33Aシューティングスター 航空自衛隊中等練習機


1997年10月 百里基地航空祭


97年11月 入間基地航空祭

航空自衛隊の中等練習機として20世紀に使用されていたジェット練習機。原型機はロッキードP-80(後にF-80)である。その複座練習機形として開発されたTF-80C(1948年)は、1949年5月5日にT−33Aと改称され、アメリカ空海軍、NATO諸国など世界各国で使用されました。生産機数は6,000機以上。航空自衛隊には1955年1月20日から計68機が米国から供与され航空学生の飛行訓練に充当された。また川崎重工でのライセンス取得により国内生産も行われ1956年1月21日から1959年3月25日までに計210機が航空自衛隊へ引き渡された。だが、後継機のT−4の配備に伴い1990年10月までにT-33Aによる学生教育は終了した。連絡/訓練用として各飛行隊に少数ずつ配備された機体も、T−4等と交替して順次退役し、残った少数の機体は入間基地の航空総隊司令部飛行隊に集められ、耐用年数が訪れるまで余生を送れるはずであった。だが、その終焉は唐突に訪れた。

1999年11月22日(月)13時43分頃、航空自衛隊航空総隊司令部飛行隊(入間基地)所属のT-33A、1機が操縦士の技量を維持するための年間飛行を実施し、入間基地への帰投時に機内での煙発生、緊急脱出(ベイルアウト)等を通報した後に、埼玉県狭山市入間川河川敷(入間飛行場滑走路北端から北へ1.6マイルの地点)に墜落した。(防衛庁の事故報告では、、事故機が飛行場に向けて進入中に急激に推力が低下して墜落したが、燃料ホースまたはフィッティング(燃料ホースと器材をつなぐ継ぎ手)の一部から漏洩した燃料が燃料コントロールユニット付近で発火し同ユニットを加熱、溶融させたことにより、エンジンヘの燃料供給が断たれ推力が低下した可能性が考えられる、とされる)。推力の低下が住宅密集地上空で発生したことから、パイロットは、墜落による地上の被害を回避するためにぎりぎりまで操縦に専念し、河川敷への墜落直前にベイルアウトしたものの、安全な脱出に必要な高度および速度の余裕を失い、かつ適切な脱出姿勢がとれないまま射出されたため、落下傘が十分に開かなかったなどで地上に落下。乗員2名とも死亡する惨事となってしまった。T-33Aの射出座席はいわゆるゼロゼロシステム(高度、速度ともゼロでも安全に脱出可能)では無かった。だが、事態はこれに収まらなかった。墜落直前に付近の送電線の電線切断してしまい、東京都内や多摩地区、埼玉県南部の80万世帯が停電となった。地下鉄や私鉄などの一部がストップし、信号機500基以上が一時作動しなくなったほか、上井草給水場、練馬給水場など5カ所で一時給水が止まるなど、広範な影響があったとのことである。

事故後、T−33Aは全機飛行停止となったが、事故調査結果では、T-33Aの飛行再開には多額の改修費が必要であるとし、残存使用期間と照らし合わせた場合、費用対効果に見合わないとして、残りの8機はそのまま用廃となることが2000年4月に決定された。2000年6月には入間基地において退役セレモニーが行われた。T-33Aは、20世紀の終わりとともに日本の空から消えていった。

■全長 11.48m ■全高 3.56m ■全幅 11.85m■主翼面積 21.81u ■最大離陸重量 7,031kg ■運用重量 3,202kg ■エンジン アリソンJ33-A-35ターボジェット×1 ■推力 2,087kg ■燃料容量 815gal(355gal(機内)+230gal×2(翼端タンク)) ■最大速度 M0.80(外部搭載なし時) ■巡航速度 M0.65 ■実用上昇限度 47,500ft ■飛行航続距離 2,037km(翼端タンク付き) ■武装 なし(12.7mm機関銃×2〜4搭載可能) ■乗員 2名