零式艦上戦闘機(A6M)

21型(A6M2b)

52型(A6M5)

零式艦上戦闘機とは

ゼロ戦といえば知る人も多いだろう。旧日本海軍の主力戦闘機として昭和15年から5年間、終戦まで活躍した日本の代表的な戦闘機である。成功を収めた96式艦戦(A5M)は、草分けとなった三菱による艦上単葉機であるが、この後継機となったのが零戦であった。このタイプはどの最新式の陸上発進戦闘機にも引けを取らない様に、堀越二郎率いるチームによって設計されたものだった。高速でかなり俊敏さを兼ね備え、長い航続距離と本格的な火力を持つように計画された。12試艦戦(A6M1)プロトタイプ2機の内、初飛行を1939年4月1日に行った第一号機は三菱「瑞星」780馬力、13型星型エンジンを搭載していた。後に中島「栄」12型星型エンジン(940馬力)に換装された12試艦戦は零式1号艦上戦闘機1型として制式採用となった。なお、名称は後に零式艦上戦闘機11型と改められた。零戦は中国戦線に登場し、戦闘での優位性を見せ付けた。太平洋戦争勃発以降、零戦の他を圧倒する航続距離が、続く数ヶ月の日本の快進撃の重要な鍵であり、この勢いは連合国軍が戦闘機の装備に本腰を入れるまで留まることを知らなかった。
連合側にゼロファイターとして恐れられた零戦も、その機体をほぼ無傷の状態で捕縛されたことにより運命が変っていく。昭和17年6月、アリューシャン作戦に参加した空母「竜驤」より発艦した古賀一等航空兵曹機(21型)はダッチハーバー空襲作戦中に、燃料タンクに被弾。母艦に帰れなくなったためダッチハーバー東方の無人島に不時着。その際湿地帯に降りた古賀機は転覆しパイロットは死亡。日本海軍の捜索でパイロットと機体を発見できなかった。その後に上陸した米軍の捜索隊により無傷に近い古賀機が発見され、米国本土で徹底的に零戦を研究した。その結果、その当時で零戦に太刀打ちできる性能を持つ連合国軍側の戦闘機が無いと認められ、日本の航空機技術の高さを見せ付けることになった。しかし零戦の欠点も見抜かれ、それに対抗する戦術と新型戦闘機の開発に着手した。そして次第に零戦の形勢は不利になっていった。
零戦は1000馬力級エンジン搭載機としては絶妙のバランスの上に成り立っていた高性能の制空戦闘機であった。米軍の調査によれば7.7mm、20mm機銃といった重装備でありながら大航続力を持ち、重量が軽く、小回りの利く運動性能、縦の運動における従舵性、操縦感覚のすばらすさを挙げている。しかし実用性において様々な欠点があった。それは防弾力、防火力の貧弱さと強度に起因する急降下性能の不足である。その他、安全装置の不備、高空性能不足、高速での横転に弱い点が挙げられる。これは性能向上にこだわりすぎて防御という点を軽視した軍当局の考え方に起因するものと思う。零戦は次第に連合国軍の2000馬力級エンジン搭載の新型機に圧倒され、当初の無敵神話は崩壊します。それでも零戦の高性能さゆえに後継機の開発が遅れ、各種改修が行われたものの、終戦まで零戦は戦いつづけた。生産総機数は11,283機にのぼり、日本機としては最多であった。

原田コレクションの零戦(展示場での案内より)

博物館では1984年にヤップ島から5機分のゼロ戦を日本に持ち帰りました。1号機は三菱製4708号機で三菱重工、小牧工場で復元され展示保管されています。
2号機は三菱製4240-1号機でラバウルの旧日本海軍飛行場から持ち帰った胴体とヤップ島から持ち帰った機体後部など使用できる部品を使用して復元、完成しました。この機体は4240号機と4241号機の部品が使われており、三菱4240号機として今年(2002年)7月13日から東京九段の靖国神社、新遊就館に保管、展示されています。
3号機は中島飛行機製21型91518号機で、1992年から復元をはじめ、今年(2002年)5月に90%完成しました。この機体は昭和18年8月末ごろに製作され、60年ぶりに日本では初めて一般公開される21型、零式艦上戦闘機です。
4号機は中島飛行機製52型1593号機で、昭和19年5月頃製作された機体です。現在展示してあります機体は2003年8月には主翼などスケルトンが完成します。明年には展示する予定で内部構造が初めて皆様に御覧いただけますのでご期待ください、
5号機は中島飛行機製21型92717号機で昭和19年5月に製造された最後の21型で52型(A6M5)も同時に製造が始まった頃、製造された機体です。

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